日本福音ルーテル岡山教会
2012年5月29日火曜日
2012年5月27日日曜日
2012年5月27日(日) 聖霊降臨祭 メッセージ
説教:「ペンテコステ」
日課:使徒2:1-21 エゼキエル書37:1-14 詩篇104:24-34、35b ヨハネ15:26-27; 16:4b-15
「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」(使徒言行録2:1-4)。復活のキリストが天に上げられた後、約束された通りに聖霊が弟子たちに与えられました。弟子たちは、ガリラヤ地方出身の無学の者たちであったのにも拘らず、ユダヤ人たちが散らされて住んでいた各地の国の言葉で、神の偉大な業を語ったと言います。五旬節の祭りにエルサレムに上って来ていたユダヤ人たちは、この不思議な光景を目にして驚きました。ある人たちは、新しい酒を呑んで酔っ払っているのだとさえ言って、その異様な光景を説明しようとしました。それほどに不思議な出来事だったということでしょう。これが、教会の誕生の瞬間だと言われます。初めて聞く人には奇妙に聞こえるこの聖霊降臨の出来事もしかし、毎年ペンテコステの日課として読むうちに、その新鮮さを失っているのではないでしょうか。神学者たちは口を揃えて言います。この出来事、聖霊が降った出来事は、二千年前だけでなく、今もなお、私たちにも起きているのだ、と。一方で納得しつつも、私たちはこう思わないでしょうか。聖霊降臨の出来事は本当に私たちの上にも起きているのだろうか。それにしては、使徒言行録2章で語られているような出来事に出くわしたことはないぞ。このような出来事が、文字通り起きるはずだと考えた人たちもいました。20世紀初頭、ある人たちは、たいした準備、勉強もせずに、海外宣教に出掛けて行きます。彼ら、彼女らは、使徒言行録2章の記述をその通りに受け取り、聖霊の力によって宣教する土地で、そこに住む人々の言葉を話せるようになるはずだと信じ、その言語の勉強をせずに母国を旅立ったのです。またある者たちは、すべてを聖霊が備えてくれるはずだという確信をもって、その国への片道切符だけを買って、旅立ちました。今のように飛行機でというわけではありません。船で何日、何十日もかけて行ったのですから、その覚悟は相当なものだったはずです。結果はどうだったでしょう。おそらく、みなさんの想像の通りです。つまり、勉強もしていない外国語を突然話せるようになどなるわけもなく、片道切符だけで宣教に出掛けた人たちも、辛抱強く励んだ少数の例外をのぞき、失望し、すぐに、またしばらくして、失意のうちに国へと引き上げたのでした。冗談に思われるかもしれませんが、これは実際に起きたことです。いったいなぜ、こんなことになってしまったのでしょう。なぜ神は、彼らに聖霊を与え、使徒言行録にあったように外国語を話す奇跡を起こさなかったのでしょう。
私たちはともすると、聖霊降臨の出来事を、ガリラヤ出身のイエスの弟子たちが、頭に炎のようなものを載せ、突然学んでもいない外国語を話し始めるという奇跡だとばかり思い描いているかもしれません。しかし、そこにはもっと、違うメッセージがあるのではないでしょうか。そのような華々しさとは異なる聖霊降臨の出来事の意味が、そこにはあるのではないでしょうか。もしそうであるなら、それはいったい何なのでしょう。そのヒントは、旧約の日課にあるようです。長いですが、あらためて聞いてみましょう。
「主の手がわたしの上に臨んだ。わたしは主の霊によって連れ出され、ある谷の真ん中に降ろされた。そこは骨でいっぱいであった。主はわたしに、その周囲を行き巡らせた。見ると、谷の上には非常に多くの骨があり、また見ると、それらは甚だしく枯れていた。そのとき、主はわたしに言われた。『人の子よ、これらの骨は生き返ることができるか。』わたしは答えた。『主なる神よ、あなたのみがご存じです。』そこで、主はわたしに言われた。『これらの骨に向かって預言し、彼らに言いなさい。枯れた骨よ、主の言葉を聞け。これらの骨に向かって、主なる神はこう言われる。見よ、わたしはお前たちの中に霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。わたしは、お前たちの上に筋をおき、肉を付け、皮膚で覆い、霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。そして、お前たちはわたしが主であることを知るようになる。』わたしは命じられたように預言した。わたしが預言していると、音がした。見よ、カタカタと音を立てて、骨と骨とが近づいた。わたしが見ていると、見よ、それらの骨の上に筋と肉が生じ、皮膚がその上をすっかり覆った。しかし、その中に霊はなかった」(37:1-8)。
預言者エゼキエルは、谷いっぱいの枯れた骨に向かって、神の語る通りに預言します。すると枯れていた骨に筋、肉、皮膚がつき、体が出来上がったと言います。しかしそれは、たとえどのように見栄えのいい肉体であったとしても、結局は死体でした。その中に命がなかったからです。続けます。
「主はわたしに言われた。『霊に預言せよ。人の子よ、預言して霊に言いなさい。主なる神はこう言われる。霊よ、四方から吹き来れ。霊よ、これらの殺されたものの上に吹きつけよ。そうすれば彼らは生き返る。』わたしは命じられたように預言した。すると、霊が彼らの中に入り、彼らは生き返って自分の足で立った。彼らは非常に大きな集団となった」(37:9-10)。
出来上がった肉体に、神の霊が吹き込まれました。聖霊が注ぎ込まれました。すると、死んでいた者たちは生き返るのです。このエゼキエルの預言を聞いて、何を思い浮かべますか。私はまず、人間の創造を思い浮かべます。創世記2章によると、神は、土の塵で人を形づくり、その鼻に息を吹き入れました。こうして人は生きる者となったわけです。ここでもまた、肉体が先に形づくられます。しかし、肉体だけでは、生きた者とは言えませんでした。人間が生きた者となるのは、神の息が吹き入れられたからです。神の息がそのうちに注がれたために、人は生きる者となったのです。詩篇の日課でも同様です。「御顔を隠されれば彼らは恐れ/息吹を取り上げられれば彼らは息絶え/元の塵に返る。あなたは御自分の息を送って彼らを創造し/地の面を新たにされる」(104:29-30)。そしてまた、同じような出来事が新約聖書にもあります。6週間前の日課で、私たちはこの出来事を見ています。それは、復活の主が弟子たちに現れた出来事でした。イエスは弟子たちに向かって言います。「『あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。』そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る』」(20:22-23)。復活の主、神であるイエス・キリストは、かつて最初の人間であるアダムにそうされたように、弟子たちにご自分の息、聖霊を吹き入れて新しい創造を行い、弟子たちを生きる者としました。新しい人間を創造したわけです。このヨハネによる福音書20章の記述は、ヨハネ版ペンテコステとして知られています。私たちが慣れ親しむ使徒言行録の聖霊降臨の出来事と、この新しい人間の創造を語るヨハネによる福音書の聖霊降臨の出来事、いったい、相矛盾する出来事なのでしょうか。一見すると、これらから一致する点を見つけることの方が困難に思われます。しかし実は、表面的な部分を超えて深く覗き込むとき、そこでは同じ事が語られているのではないでしょうか。どういうことでしょう。
聖霊にあたる語は、旧約聖書の書かれたヘブライ語でも、新約聖書で書かれたギリシア語でも同じく、「霊」や「息」、「風」を意味します。また、今見てきたように、神が聖霊を送る、与えるということは、神の息を吹き入れ、また注ぐということでした。使徒言行録でも、ヨハネによる福音書でも、風が吹きました。聖霊が与えられ、聖霊が吹き入れられ、注がれたのです。神の息が与えられ、神の息が吹き入れられ、注がれたのです。聖霊が注がれた結果、教会が生まれました。神の息が吹き入れられた結果、新しい人間が創造されました。しかしこの二つの出来事は、どのようにつながるというのでしょう。
新しい人間とはいったい誰でしょう。古い人間はアダムでした。罪を犯し、その報酬として死を賜りました。アダムは罪のうちにあって、神に死んでいたのです。アダムは枯れた骨でした。そして私たちもまた、このアダムです。谷を埋め尽くす、大量の枯れた骨なのです。アダムと同様に、罪のうちにある、死んだ者なのです。しかし、この骨に、甚だしく枯れたと言われている骨に神は、筋を、肉を、皮膚を与え、肉体を形づくられました。そして息を吹き入れたのです。あのイースターの夕べ、復活のキリストは、神は、弟子たちに息を吹きかけ、枯れた骨を生き返らせたのです。新しい人間として、新しい創造をしたのです。
新しい人間とはいったい誰でしょう。それは、イエス・キリストです。古い人間が、最初の人、アダムであったように、新しい人間、最後の人はキリストです。そして弟子たちは、復活したキリスト・イエスに息を吹きかけられたとき、キリストにあって生かされ、この世にあってキリストとして生かされ、生きる者となったのです。教会の別名をご存知でしょうか。キリストの体です。教会は、キリストの体であると言われます。弟子たちはまさに、聖霊を受け、キリストの体として、この世に生きるようになったのです。聖霊降臨が教会の誕生であるとはまさに、こういうことなのでしょう。そのようにして見てみると、聖霊降臨の出来事は決して、ガリラヤ出身の弟子たちが、突然知らない外国語を話し始めたという奇跡が中心であるわけではないことが自ずと明らかになるようです。むしろ奇跡は、それほど多くの異なる言語を話しつつしかし、弟子たちがただ一つの言、ロゴスである十字架の主キリストを語っていたということなのではないでしょうか。そしてそれこそが、聖霊降臨の出来事です。それはつまり、弟子たちが聖霊を受け、世に対して、十字架の主イエス・キリストという福音を証しし始めたということなのです。その死んだ体に聖霊を吹き入れられ、キリストの体、教会として、この世に生き、福音を証しし始めたということなのです。そして、先ほども言いましたが、弟子たちだけでなく、今を生きる私たちもまた、この聖霊降臨の出来事を経験し、聖霊降臨の出来事を生きているのです。私たちもまた、聖霊を与えられ、神の息を吹き入れられ、キリストの体として、新しい人間として、この世に遣わされ、生きているのです。しかし、このことこそまさに、私たちにピンと来ないことかもしれません。なぜなら、どうも私たちは、弟子たちと同じように聖霊を受けている筈なのにも拘らず、使徒言行録にあるような情熱をもっていないように感じるからです。そのようにキリスト・イエスの福音を証しできていないからです。
ヨハネによれば、聖霊は、「罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかに」(16:8)します。人々がキリストを信じないことが罪について、キリストが天に上られるということが義について、そして中空の支配者と呼ばれる神への敵対者、サタンが断罪されるということが裁きについてだと言われます。聖霊を受けたはずの私たちの中にもまた、間違いなくこの罪があるのではないでしょうか。福音を信じないという罪がです。私たちは、どのように見事に整えられていても、神の息から離れたら死体でしかありません。枯れた骨として、また死体として神に近づこう、神に喜ばれるようなことをしようと思っても、できないのです。死んでいるからです。私たちはこの現実を、真剣に受け止めているでしょうか。生き返ると約束するみことばは、実に、私たちが死んでいるということを語り、死んでいるという現実を突きつけています。私たちは、自分が死んだものであるということを、枯れた骨でしかないということを、受け止めているのでしょうか。
しかしそのような枯れた骨を、神は再び組み直され、筋や肉、皮膚を与え、体を形づくり、ご自分の息を吹き入れました。そして私たちは、キリストの体として、教会として、息を吹き入れられ、新しく生かされた者の群れとして、この世に遣わされているのです。一人ではなく、群れとして、体の一部がただそれだけでではなく、一部を含んだ体全体として、遣わされているのです。それは、頭であるキリストの御旨を、思いを顕かにするために、他の部分である信仰の兄弟姉妹たちと連動して動くということです。自分の意志ではなく、キリストの意志、キリストの心を生きるということです。そしてそれは、ときに難しく、ときに煩わしいことかもしれません。なぜなら、そこでは私たちは、他人をゆるさないといけないからです。他人と一緒に生きないといけないからです。しかし同時に、ときにうれしく、ときにほっとすることかもしれません。なぜなら、そこで私たちは、他人にゆるされていることを感じるからです。決して一人では生きていないことを知るからです。
私たちは、枯れた骨にすぎません。しかし神は、その枯れた骨を見捨てず、その枯れた骨をつかい、ご自分の体を形づくり、息を吹き入れ、教会として、キリストという一つの言を証しするために、この世に遣わしました。まだ枯れている骨に向かって、遣わされているのです。それはこの世にあっては、先日の月食のようなものでしょう。太陽の明るさはあり、太陽がそこにあるのにも拘らず、不思議な暗さに満たされた世界です。そのような暗い明るさの世界に生きる私たちに聖霊は与えられ、その心のひだを掬い、私たちの思いを神に執り成すのだと、パウロは言います(ローマ8:26)。私たちは決して一人ではありません。聖霊がいます。キリストにあって、兄弟姉妹がいます。私たちの思いを神はすべてご存知です。なぜなら神である聖霊ご自身が、私たちの思い、苦しみを、ご自分のこととして経験し、受け止め、私たちのためにうめいておられるからです。私たちのために苦しみ、同時に力を与えることのできる方を、聖霊を、私たちは今、二千年前と同様に与えられているのです。
日課:使徒2:1-21 エゼキエル書37:1-14 詩篇104:24-34、35b ヨハネ15:26-27; 16:4b-15
「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」(使徒言行録2:1-4)。復活のキリストが天に上げられた後、約束された通りに聖霊が弟子たちに与えられました。弟子たちは、ガリラヤ地方出身の無学の者たちであったのにも拘らず、ユダヤ人たちが散らされて住んでいた各地の国の言葉で、神の偉大な業を語ったと言います。五旬節の祭りにエルサレムに上って来ていたユダヤ人たちは、この不思議な光景を目にして驚きました。ある人たちは、新しい酒を呑んで酔っ払っているのだとさえ言って、その異様な光景を説明しようとしました。それほどに不思議な出来事だったということでしょう。これが、教会の誕生の瞬間だと言われます。初めて聞く人には奇妙に聞こえるこの聖霊降臨の出来事もしかし、毎年ペンテコステの日課として読むうちに、その新鮮さを失っているのではないでしょうか。神学者たちは口を揃えて言います。この出来事、聖霊が降った出来事は、二千年前だけでなく、今もなお、私たちにも起きているのだ、と。一方で納得しつつも、私たちはこう思わないでしょうか。聖霊降臨の出来事は本当に私たちの上にも起きているのだろうか。それにしては、使徒言行録2章で語られているような出来事に出くわしたことはないぞ。このような出来事が、文字通り起きるはずだと考えた人たちもいました。20世紀初頭、ある人たちは、たいした準備、勉強もせずに、海外宣教に出掛けて行きます。彼ら、彼女らは、使徒言行録2章の記述をその通りに受け取り、聖霊の力によって宣教する土地で、そこに住む人々の言葉を話せるようになるはずだと信じ、その言語の勉強をせずに母国を旅立ったのです。またある者たちは、すべてを聖霊が備えてくれるはずだという確信をもって、その国への片道切符だけを買って、旅立ちました。今のように飛行機でというわけではありません。船で何日、何十日もかけて行ったのですから、その覚悟は相当なものだったはずです。結果はどうだったでしょう。おそらく、みなさんの想像の通りです。つまり、勉強もしていない外国語を突然話せるようになどなるわけもなく、片道切符だけで宣教に出掛けた人たちも、辛抱強く励んだ少数の例外をのぞき、失望し、すぐに、またしばらくして、失意のうちに国へと引き上げたのでした。冗談に思われるかもしれませんが、これは実際に起きたことです。いったいなぜ、こんなことになってしまったのでしょう。なぜ神は、彼らに聖霊を与え、使徒言行録にあったように外国語を話す奇跡を起こさなかったのでしょう。
私たちはともすると、聖霊降臨の出来事を、ガリラヤ出身のイエスの弟子たちが、頭に炎のようなものを載せ、突然学んでもいない外国語を話し始めるという奇跡だとばかり思い描いているかもしれません。しかし、そこにはもっと、違うメッセージがあるのではないでしょうか。そのような華々しさとは異なる聖霊降臨の出来事の意味が、そこにはあるのではないでしょうか。もしそうであるなら、それはいったい何なのでしょう。そのヒントは、旧約の日課にあるようです。長いですが、あらためて聞いてみましょう。
「主の手がわたしの上に臨んだ。わたしは主の霊によって連れ出され、ある谷の真ん中に降ろされた。そこは骨でいっぱいであった。主はわたしに、その周囲を行き巡らせた。見ると、谷の上には非常に多くの骨があり、また見ると、それらは甚だしく枯れていた。そのとき、主はわたしに言われた。『人の子よ、これらの骨は生き返ることができるか。』わたしは答えた。『主なる神よ、あなたのみがご存じです。』そこで、主はわたしに言われた。『これらの骨に向かって預言し、彼らに言いなさい。枯れた骨よ、主の言葉を聞け。これらの骨に向かって、主なる神はこう言われる。見よ、わたしはお前たちの中に霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。わたしは、お前たちの上に筋をおき、肉を付け、皮膚で覆い、霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。そして、お前たちはわたしが主であることを知るようになる。』わたしは命じられたように預言した。わたしが預言していると、音がした。見よ、カタカタと音を立てて、骨と骨とが近づいた。わたしが見ていると、見よ、それらの骨の上に筋と肉が生じ、皮膚がその上をすっかり覆った。しかし、その中に霊はなかった」(37:1-8)。
預言者エゼキエルは、谷いっぱいの枯れた骨に向かって、神の語る通りに預言します。すると枯れていた骨に筋、肉、皮膚がつき、体が出来上がったと言います。しかしそれは、たとえどのように見栄えのいい肉体であったとしても、結局は死体でした。その中に命がなかったからです。続けます。
「主はわたしに言われた。『霊に預言せよ。人の子よ、預言して霊に言いなさい。主なる神はこう言われる。霊よ、四方から吹き来れ。霊よ、これらの殺されたものの上に吹きつけよ。そうすれば彼らは生き返る。』わたしは命じられたように預言した。すると、霊が彼らの中に入り、彼らは生き返って自分の足で立った。彼らは非常に大きな集団となった」(37:9-10)。
出来上がった肉体に、神の霊が吹き込まれました。聖霊が注ぎ込まれました。すると、死んでいた者たちは生き返るのです。このエゼキエルの預言を聞いて、何を思い浮かべますか。私はまず、人間の創造を思い浮かべます。創世記2章によると、神は、土の塵で人を形づくり、その鼻に息を吹き入れました。こうして人は生きる者となったわけです。ここでもまた、肉体が先に形づくられます。しかし、肉体だけでは、生きた者とは言えませんでした。人間が生きた者となるのは、神の息が吹き入れられたからです。神の息がそのうちに注がれたために、人は生きる者となったのです。詩篇の日課でも同様です。「御顔を隠されれば彼らは恐れ/息吹を取り上げられれば彼らは息絶え/元の塵に返る。あなたは御自分の息を送って彼らを創造し/地の面を新たにされる」(104:29-30)。そしてまた、同じような出来事が新約聖書にもあります。6週間前の日課で、私たちはこの出来事を見ています。それは、復活の主が弟子たちに現れた出来事でした。イエスは弟子たちに向かって言います。「『あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。』そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る』」(20:22-23)。復活の主、神であるイエス・キリストは、かつて最初の人間であるアダムにそうされたように、弟子たちにご自分の息、聖霊を吹き入れて新しい創造を行い、弟子たちを生きる者としました。新しい人間を創造したわけです。このヨハネによる福音書20章の記述は、ヨハネ版ペンテコステとして知られています。私たちが慣れ親しむ使徒言行録の聖霊降臨の出来事と、この新しい人間の創造を語るヨハネによる福音書の聖霊降臨の出来事、いったい、相矛盾する出来事なのでしょうか。一見すると、これらから一致する点を見つけることの方が困難に思われます。しかし実は、表面的な部分を超えて深く覗き込むとき、そこでは同じ事が語られているのではないでしょうか。どういうことでしょう。
聖霊にあたる語は、旧約聖書の書かれたヘブライ語でも、新約聖書で書かれたギリシア語でも同じく、「霊」や「息」、「風」を意味します。また、今見てきたように、神が聖霊を送る、与えるということは、神の息を吹き入れ、また注ぐということでした。使徒言行録でも、ヨハネによる福音書でも、風が吹きました。聖霊が与えられ、聖霊が吹き入れられ、注がれたのです。神の息が与えられ、神の息が吹き入れられ、注がれたのです。聖霊が注がれた結果、教会が生まれました。神の息が吹き入れられた結果、新しい人間が創造されました。しかしこの二つの出来事は、どのようにつながるというのでしょう。
新しい人間とはいったい誰でしょう。古い人間はアダムでした。罪を犯し、その報酬として死を賜りました。アダムは罪のうちにあって、神に死んでいたのです。アダムは枯れた骨でした。そして私たちもまた、このアダムです。谷を埋め尽くす、大量の枯れた骨なのです。アダムと同様に、罪のうちにある、死んだ者なのです。しかし、この骨に、甚だしく枯れたと言われている骨に神は、筋を、肉を、皮膚を与え、肉体を形づくられました。そして息を吹き入れたのです。あのイースターの夕べ、復活のキリストは、神は、弟子たちに息を吹きかけ、枯れた骨を生き返らせたのです。新しい人間として、新しい創造をしたのです。
新しい人間とはいったい誰でしょう。それは、イエス・キリストです。古い人間が、最初の人、アダムであったように、新しい人間、最後の人はキリストです。そして弟子たちは、復活したキリスト・イエスに息を吹きかけられたとき、キリストにあって生かされ、この世にあってキリストとして生かされ、生きる者となったのです。教会の別名をご存知でしょうか。キリストの体です。教会は、キリストの体であると言われます。弟子たちはまさに、聖霊を受け、キリストの体として、この世に生きるようになったのです。聖霊降臨が教会の誕生であるとはまさに、こういうことなのでしょう。そのようにして見てみると、聖霊降臨の出来事は決して、ガリラヤ出身の弟子たちが、突然知らない外国語を話し始めたという奇跡が中心であるわけではないことが自ずと明らかになるようです。むしろ奇跡は、それほど多くの異なる言語を話しつつしかし、弟子たちがただ一つの言、ロゴスである十字架の主キリストを語っていたということなのではないでしょうか。そしてそれこそが、聖霊降臨の出来事です。それはつまり、弟子たちが聖霊を受け、世に対して、十字架の主イエス・キリストという福音を証しし始めたということなのです。その死んだ体に聖霊を吹き入れられ、キリストの体、教会として、この世に生き、福音を証しし始めたということなのです。そして、先ほども言いましたが、弟子たちだけでなく、今を生きる私たちもまた、この聖霊降臨の出来事を経験し、聖霊降臨の出来事を生きているのです。私たちもまた、聖霊を与えられ、神の息を吹き入れられ、キリストの体として、新しい人間として、この世に遣わされ、生きているのです。しかし、このことこそまさに、私たちにピンと来ないことかもしれません。なぜなら、どうも私たちは、弟子たちと同じように聖霊を受けている筈なのにも拘らず、使徒言行録にあるような情熱をもっていないように感じるからです。そのようにキリスト・イエスの福音を証しできていないからです。
ヨハネによれば、聖霊は、「罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかに」(16:8)します。人々がキリストを信じないことが罪について、キリストが天に上られるということが義について、そして中空の支配者と呼ばれる神への敵対者、サタンが断罪されるということが裁きについてだと言われます。聖霊を受けたはずの私たちの中にもまた、間違いなくこの罪があるのではないでしょうか。福音を信じないという罪がです。私たちは、どのように見事に整えられていても、神の息から離れたら死体でしかありません。枯れた骨として、また死体として神に近づこう、神に喜ばれるようなことをしようと思っても、できないのです。死んでいるからです。私たちはこの現実を、真剣に受け止めているでしょうか。生き返ると約束するみことばは、実に、私たちが死んでいるということを語り、死んでいるという現実を突きつけています。私たちは、自分が死んだものであるということを、枯れた骨でしかないということを、受け止めているのでしょうか。
しかしそのような枯れた骨を、神は再び組み直され、筋や肉、皮膚を与え、体を形づくり、ご自分の息を吹き入れました。そして私たちは、キリストの体として、教会として、息を吹き入れられ、新しく生かされた者の群れとして、この世に遣わされているのです。一人ではなく、群れとして、体の一部がただそれだけでではなく、一部を含んだ体全体として、遣わされているのです。それは、頭であるキリストの御旨を、思いを顕かにするために、他の部分である信仰の兄弟姉妹たちと連動して動くということです。自分の意志ではなく、キリストの意志、キリストの心を生きるということです。そしてそれは、ときに難しく、ときに煩わしいことかもしれません。なぜなら、そこでは私たちは、他人をゆるさないといけないからです。他人と一緒に生きないといけないからです。しかし同時に、ときにうれしく、ときにほっとすることかもしれません。なぜなら、そこで私たちは、他人にゆるされていることを感じるからです。決して一人では生きていないことを知るからです。
私たちは、枯れた骨にすぎません。しかし神は、その枯れた骨を見捨てず、その枯れた骨をつかい、ご自分の体を形づくり、息を吹き入れ、教会として、キリストという一つの言を証しするために、この世に遣わしました。まだ枯れている骨に向かって、遣わされているのです。それはこの世にあっては、先日の月食のようなものでしょう。太陽の明るさはあり、太陽がそこにあるのにも拘らず、不思議な暗さに満たされた世界です。そのような暗い明るさの世界に生きる私たちに聖霊は与えられ、その心のひだを掬い、私たちの思いを神に執り成すのだと、パウロは言います(ローマ8:26)。私たちは決して一人ではありません。聖霊がいます。キリストにあって、兄弟姉妹がいます。私たちの思いを神はすべてご存知です。なぜなら神である聖霊ご自身が、私たちの思い、苦しみを、ご自分のこととして経験し、受け止め、私たちのためにうめいておられるからです。私たちのために苦しみ、同時に力を与えることのできる方を、聖霊を、私たちは今、二千年前と同様に与えられているのです。
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